酔っ払ってお墓参りに行くのは是か非か?

問う
季節柄バーベキュー等、仲間と集まってお酒を飲む機会が多いです。中には若くして亡くなった仲間もおり、お酒を飲んでいるとはいえみんなが集まった貴重な機会であるからこそ「今から〇〇の墓参りに行こう!」とどこからか声が上がることがあります。私は少し畏れ多いというか抵抗を感じるのですが、酔っ払ってお墓参りに行っても良いのでしょうか? (29才 介護職 男性)

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答う
亡き友のこと忘れず、みんなで語れるご友人をお持ちなのは素敵ですね。
故人はいのちのカタチを変えてあなた方の中に確かに残っておられるように存じ上げます。
素晴らしいですその関係!!



さて、「酔っ払ってお墓参りに行くのは是か非か?」についての私の考えは

「積極的に行くべし!」


です。

・まず本堂にお参りできる。(基本中の基本)
・墓地は公共施設と心得た言動ができる。(騒がない、ゴミを残さない、火の取り扱いに注意できる…etc)

これさえ守れれば行っても大丈夫!

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そもそも浄土真宗での墓参りは「先祖(故人)参り」ではなくて、「自分参り」。
「亡き人のためのお参り」ではなく亡き人から照らしだされる「自分自身と出遇う」場です。

だから酔っ払っていくと亡き人に失礼にあたるとか、ましてや祟りに遭うなんてことは考える必要のないことです。

しかし酔っていると物事を考えられなくて自分自身と出遇うなんてできないではないか!だから酒に酔って墓参りに行くなど言語道断である!というお叱りが予想されます。ごもっともなご指摘だと思います。


それでも!私は酔ってでも墓参りに行くことをオススメしたい。

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「自分と出遇う」という墓参り本来の「果」は果たせなくとも、「墓参り」という「果」は必ず果たせます。

その「墓参り」という「果」にあなたを至らしめた「縁」に気づいた時、あなたはきっとあなたを超えた「自分と出遇う」ことができる。

「墓参り」は「果」であるとともに「自分と出遇う」ことの「因」にもなるのではないか。

そう私は考えるからこそ、酔ってでも墓参りをおすすめするのです。

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少々小難しいことを言いましたが

酔ってでも墓参り行くべし!(ただし他人の迷惑にならないように!)

というのが今回の私の答えです。

次はみんなでお参りしてからバーベキューってのもいいかもしれませんね。
その時は私も呼んでくださいね(^^)!

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今日も読んでくれてありがとう!

「良き習慣は才能を超える」

気づけば6月半ば・・・

ブログの更新が半月ほど滞っていた。

この期間

・新潟親鸞学会の総会、研究発表&近角常観研究の「世界的権威」である岩田文昭先生をお迎えしての公演があったりindy.hatenablog.com

参考

鼓童 親鸞聖人七五〇回御遠忌記念鼓童特別公演~今、いのちがあなたを生きている~ に出かけてみたり。

・僕の密かな楽しみである新津の超一流書店、栄進堂さんの古本市(毎月第一日曜開催!)に出撃してみたり。eishindo.blog88.fc2.com
twitter.com

・東京交響楽団の新潟定期公演行ったり
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・藤場俊基師を講師に迎えての研修会があったり

などなど、忙しく過ごしていた。



ちなみに明日は一箱古本市in現代市に行く!

niigatabooklight.com


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いや〜振り返ってみても盛りだくさん!

一つ一つの気付きや学び、読者の皆さんと共有したい情報などを書き起こしたいところだが、忙しさに怠けて行動できていない〜(ToT)

俺って書く才能ないのかなぁ…と若干傷心気味(-_-;)

そんな最近の日々の中、表題の「良き習慣は才能を超える」という言葉に出会った。

才能がなくとも、コツコツコツコツとやって自己成長を促す「習慣」さえ身につけてしまえば才能ホルダーを大きく超えることができるんだ!という言葉。

少しづつでもいいから書いていこうという気持ちになった!

さあここから頑張ろう!

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今日も読んでくれてありがとう!

古文書解読を習う

古文書解読講座を受講する

先日ご門徒さんから古文書鑑定の御依頼を受けたと書きました。

indy.hatenablog.com

頼りにされたけど力になれなかった(いつの時代の書物かわからなかった)ことは、やはり悔しかった。

その他にも

  • 昨年新潟県で開催された特別展「なむの大地」で750年ぶりに里帰りした『恵信尼消息』を目の前にしても全然読めなかったこと。
  • 親鸞聖人を学ぶには翻刻された『教行信証』だけでは不十分で、筆跡や修正箇所まで含めた真筆本も読めたほうが良いと考えていたこと。

などが重なり、この際おもいきって古文書解読を習ってみよう!

ということで新潟県立文書館が開催している古文書初級解読講座(春季)を受講してきました。(好評で申し込みは終了しています(ToT))



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習ってみてわかった事

重要文書の書き方の「お手本」が出版されていた。

当時は地理的には離れていても借用書等の重要文書の体裁はほぼ変わらなかった。それは「お手本」が出版されており、みんなそれをベースに書いていたから。今回のテキストはその「お手本」のひとつで『御家文会用文章』という幕末の重要書類を書くための手引書でした。
→村上の文書も糸魚川の文書も同じ体裁で発見されているそうです。


昔は草書から文字を学び始めた。

今は鉛筆やペンが主流となり止めたりハネたりがやりやすいので楷書体から文字を習うが、筆を使っていた頃は草書体から文字を習った。文字の崩し方は何通りかあり「なんでそういうふうに崩すの?」といってもただそうだという事実があるのみで調べられない。
→時代によってもだいぶ違うのかな。『教行信証』の坂東本とか楷書で書かれているし。


書き順なんてどうでもよい

今でこそ書き順が決められているが、草書で書いている関係上そんなものに当時はこだわっていなかった。
→書き順に億劫になる必要なんてないんだな。



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あなたもチャレンジ!古文書解読!

いろいろ書きましたが、今回のテキストと僕が解読したもの(青字)、解説を聞いて答え合わせをしたもの(赤字)を恥をかき捨ててご覧にいれます。

もしよろしければテキストを見て実際に解読をやってみてください。

君は俺を超えられるか笑!


テキスト1
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テキスト2
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テキスト1解答
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テキスト2解答
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結構できてないか俺!?できているんじゃないのか!?センスあるんじゃないか!?

というか古文書解読パズルみたいで面白いぞ!ハマりそう!これからちょっと頑張っちゃおうかな(^^ゞ



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門徒さんの和讃本も調べてもらった

授業終了後、先生にご門徒さんからご質問いただいた和讃本の写真をお見せして簡易鑑定して頂いた所、外包紙に「弘化改版」と表記があるのでその年代に版ができたのは確かで、その後近いうちに出版されたのではないか。もしかしたら当時の出版物の記録帳みたいなものに載っているかもしれないから追跡調査可能という言葉を頂きました。
そこまでは行かずとも「弘化(1844〜1847年)改版」と判明しただけで御の字でした(^O^)持ち主もきっと喜んでくれるだろう!



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このように充実感いっぱいで文書館をあとにして、近くのスーパー(新潟ではおなじみのチャレンジャー)で夕飯のおつかいをした。

昨今の暑さで野菜の値段が高騰する中、キャベツ一玉¥128で特売しているではないか!!!



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古文書「解読」のあとはキャベツ「お買い得」!!!




ということで我が家の夕飯にキャベツの千切りサラダが加わったことはは言うまでもないことである。


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今日も読んでくれてありがとう

三条別院にて御遠忌(ごえんき)厳修中

 

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gobosama.com

 

 

50年に1度の大法要である御遠忌(ごえんき)が、三条別院にて厳修されています。

 

されます!ではなく、されています(現在進行形)!

 

50年前、貴方は何をしていたでしょう

50年後、貴方は何をしているでしょう

 

今、貴方は何をしていますか

 

三条教区・三条別院宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要について

三条教区では、地域の教化の中心である三条別院において、2015年5月19日(火)から5月24日(日)までの6日間、五昼夜にわたり、宗祖親鸞聖人(しゅうそ しんらんしょうにん)の御遠忌法要(ごえんきほうよう)をお勤めします。この法要は、浄土真宗の宗祖、親鸞聖人が1262(弘長2)年に亡くなられた後、50年おきに勤められてきた法要です。 民衆とともに、厳しい現実の中、真の人間として生きる道を求められ、私たちの上に仏教が容易く実現するようにと、阿弥陀如来の本願念仏(南無阿弥陀仏)の教えをすすめてくださった宗祖に出会い、教えを確かめ合い、感謝する機会としてお勤めします。

750年に渡って先人が大切にしてきた、より処にしてきた、確かなものがあります。

 

それは今回の講師でもあった川村妙慶さんの講題でもあるようにすべての人に「私が私でよかったと思える人生」を歩ませてくれるものです。

 

「わたしはまだ仏教には早いですから」ではないのです。

 

年齢も性別も関係ないのです。

 

この御遠忌に三条別院までお参りに行った、だから御利益があるんだいいことがあるんだ、という性質のものでもありません。

 

御利益御利益と誤魔化してすべての原因を外に置くことでしか生きることのできない救い難き私たちの姿を明らかにし、そんな私たちでも自分自身を確かに引き受けて生きていくことができる道理、仏道がある。

 

その道を広くあきらかにされたのが親鸞聖人であり、その教えと出遇えたことに感謝する、確かめ合うのが御遠忌です。

 

「わたしには関係ない話」ではないんです。

 

今、貴方は何をしていますか

 

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三条別院まで実際に足を運んでいただければありがたいことですが、それが叶わなくとも御遠忌に込められた願いや思いを汲みとっていただいて、親鸞聖人の教えと出遇ってほしいと思います。

 

法要や儀式は場所を選びますが

御遠忌それ自体は場所を選ばない

 

自宅御遠忌、いいじゃないですかw

 

わたし自身は最終日にお参りに行きたいと思っております。

門首(親鸞聖人の末裔であり門徒の首座)と池田勇諦先生と三条別院で会えるのはありがたい事です。

 

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今日も読んでくれてありがとう

 

ブランド品を持つこと

問う 

ブランド品(特にバッグ!)が欲しくてたまらないんですが、これって悪いことなんでしょうか?(20代、女性、主婦)

 

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答う 

そりゃだめだ!やめとけ!…‥‥って僕が言ってもいっても欲しいものでしょう。

滝行とか苦行に励んでも、神様に頼んでも、きっと欲しいはずです。

ブランドバッグから逃げられたとしても今度はカタチを変えて何かが欲しくなるでしょう。(滝行中毒になって、月一で何処かの滝に行かないと気がすまない!とかね笑)

 

欲しい気持ち(煩悩)からは逃れられないのです。

真宗ではこういう人間観を煩悩具足の凡夫と代々表現してきました。

 

だから欲しい気持ち自体に良い悪いはありません。

もちろんブランドバッグ自体にも良い悪いはありません。

 

「買いたいけど買えない私の人生なんて最低」・・・となると悪くなります。

「こんないいモノ買おうとしている私は他者よりエラい」・・・となると悪くなります。

 

勘違いにだけは気をつけてください。

 

(「買いたいけど買えない私の人生なんて最低」「こんないいモノ買おうとしている私は他者よりエラい」・・・これらの考え方が相対的なもので作り物なんだ、気にする必要はないんだと教えてくれるのが仏教であり真宗です。)

 

ブランドバッグの購入前に一歩立ち止まれる貴女はきっとブランドバッグをサラリと着につけることができる素敵な女性なんだとお見受けいたします。

御自身と向き合ういい買い物ができることを願っております。

 

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今日も読んでくれてありがとう!

 

行こうぜ!ブータンの幸福論

講演会があります

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私の所属するお坊さんの団体が主催する講演会が行われます。

 

講題 ブータンと幸福論〜人々の幸せの源泉を求めて〜

講師 本林靖久 氏

日時 2015年5月16日(土)午後14時より

会場 江南区文化会館 (電話025-383-1001)

 

どなたさまもご入場いただけます(要チケット¥500。当日券あり)。

ぜひご参加ください。共に幸せの本質について考えましょう。

私もご門徒さん何名かと一緒に聞きに行きます。会ったらよろしく!

 

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 ブータンに関する本を読んでみた

 

講師の著書とウチにあったブータン関係の書籍を一冊づつ読みました。

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講師の著作↓

ブータンと幸福論―宗教文化と儀礼

ブータンと幸福論―宗教文化と儀礼

 

手元にあったもの↓

世界一しあわせな国 ブータン人の幸福論

世界一しあわせな国 ブータン人の幸福論

 

 双方とも読みやすかったですが、前者はややアカデミックな視点、後者は主観的な視点で書かれています。

ブータン初心者(わたしも(´・ω・`))は後者を読んでさらっと外観を掴んでから、本林先生の著書を味わうことをオススメします!

 

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「幸せのカタチ」を支える型(チベット仏教に基づく)をブータンの方々はもっているんだなと感じました。

その型がただの理想や精神的なものにとどまらず、生活実践として身体性を帯びている所にブータンのすごさがある。

日本も見習う……というわけではなく、そのブータン人の姿から照らされる我々の姿をしっかりと見つめることが大切なのではないかと思いました。

 

われわれがこの時代に日本で生まれて当たり前と思っている型は何だろう。

あるのか、ないのか?

もしあるとしたら、それにはめ込む事によって苦しみを生んでいるのではないだろうか。

 

 

作り物を恐れる必要はない。

 

それと同時に

 「若い人はすぐ型破りをやりたがるけれど、型を会得した人間がそれを破ることを『型破り』というのであって、型のない人間がそれをやろうとするのは、ただの『かたなし』です」 

 という中村勘三郎さんのことばが思い浮かんだ。

 

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今日も読んでくれてありがとう!

 

 

 

 

なんでも鑑定団!

先日月参りに伺ったお宅の御主人から


「おめさん!これいつのモンだかわかっかね??」

(【超訳ブラッド・ピット似で男前僧侶のインディさん、知恵深い貴方にお尋ねします。この古き本はいつの時代のモノでしょうか?)

と、ご質問いただきました。






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私(ど素人!)の見立てでは、江戸末期~明治初期にかけて翻刻されて、遅くとも大正までに出版されたものではないか、とその場ではお答えさせていただきました。

根拠は『正像末和讃』の巻末にある本願寺歴代がその時代であったからです。はい…それだけです( ̄▽ ̄;)

私はこういう方面全然わからないので、詳しい人に聞いてみてもしわかったらお伝えしますねっ!と写真だけ撮らさせてもらいました。

もし読者の皆様でピンときた方いらっしゃいました 教えてください笑
コメントよろしくお願いしますー!


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持ち主の御主人、本の古典的価値がどうのこうのというよりも、自分の親かそのまた親が大切にしていたモノを自分も実際に触れられるということが感慨深そうでした。


諸行無常の道理はありますが、モノは可能な限り大切に扱いたいものですね。


できれば日時と名前を記入してね(^^)
百年後の誰かが見るかもしれませんよ笑


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今日も読んでくれてありがとう!