《蛹の譬え》〜人は死んでどうなるのでしょう〜

先日手塚治虫の『ブッダ』を読了した。

この作品は数種類のコミックスが発行されているが、今回読んだのは講談社発行『手塚治虫漫画全集』に収められた『ブッダ』であった。全14巻。最終14巻の末には作者によるあとがきがあり、そこで作者は

「ブッダ」は先にのべたように、ほとんどがフィクションで、正確な仏典の漫画化ではありません。

と述べているように、この作品は《歴史的事実》としての仏教、もしくは釈尊伝を描いているものではない。それよりも作者個人がいただいた(=感動をおぼえた、と積極的に言いたい。)仏教の《真実》をビジュアル化したもので、それゆえにむしろ大乘経典性が高いと感じた。経典のほとんどは「如是我聞」(是の如く、我聞きたまえき)や「我聞如是」(我聞きたまえき、是の如き)といったように「わたしはこのようにいただいた」という始まり方をしているが、この作品の冒頭に「如是手塚聞」と記してあると脳内で加筆したい。


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たくさん感動のシーンや学びが深まったシーンがあったのだが、私の心を最大に射ったの最終話のアーナンダ(ブッダの弟子)が師ブッダに「人は死んでどうなるのでしょう」と尋ね、ブッダがそれに答えていくシーンであった。

死期の迫ったブッダはこう聞くアーナンダに

「おまえはまだそんなことを気にするのか。何十年も私についていて」

と、死や別れを前に迷いの中にいる弟子の凡夫性を愛情深く指摘しつつ、青虫が蛹となり、いずれは蝶になるように、長い時間のなかで人間が人間でいられるのはほんの短い間であると生命がうつりゆく相を諭す。そして「死ぬということは人の肉体という殻から生命がただとびだしていくだけだと思うがよい」と語り、とびだしていった生命が姿を変えて続いていく相を説く、そのシーンに最も心を惹かれたのであった。

この譬えは手塚治虫オリジナルではなく古来よりインドではあったようだが、私はこの譬えを《蛹の譬え》と命名したい。



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私は法話の機会をいただいた時に生命の連続性をお話させていただくことがある。




大切な方を亡くしてしまった。
失う辛さは耐え難く筆舌に尽くす事ができない。
しかしその辛さを消したり誤魔化したりする必要はない。
自分が失ったものはなにか、それと徹底的に向き合うことが何よりも大切。プラス思考がすべてではない。

あなたが失ったものは何か?そこから生まれる新たな問い。今も残っているものは何か?

確かに死は大切な人のカラダを奪っていく。目に見えるカタチとしてはもう会うことができない。
しかし、その人があなたにかけてくれた熱い思い、優しさ、願いは姿を変えていまも確かに残っているのではないか。
見たり、聞いたり、触れたりすることはできないが、確かにあなたのそばにカタチを変えていのちは残っている。

大切な方は悲しみに倒れたあなたを照らす光となって、立ち上がりともに歩むようになる。




そのような話を私はさせていただく。そして自分自身大切な人を亡くした経験を上記のようにいただいて生きている。その私にとって《蛹の喩え話》は本当に響くものがあった。

蛹として共に生き、願いの蝶として私を照らす

人間は偉大である。


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今日も読んでくれてありがとう!