米山隆一氏に思う~TPP問題点のスペシャリストになれるのでは?~

先の新潟県知事選挙では原発再稼働問題に争点が絞られた結果、再稼働に慎重な姿勢を示した医師で弁護士の米山隆一氏が当選をはたした。

 

米山氏に関しては正直に言えば当初はあまり良い印象を持っていなかった。しかしながら、当選後にさまざまなメディアでの同氏の言動を見聞きしていたら、好印象に転じてきたというところ。

今後周りの実務者とうまく折り合いをつけて、信念を貫いていただきたいと思う。

 

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そんな米山氏、原発に関する姿勢がクローズアップされるが、今日の朝方の地元番組に出演している様子をお見受けして、原発問題もさることながらTPP関連問題のスペシャリストになれるのでは?!と思ったところである。

 

灘高~東大~ハーバードと進学し、医師で弁護士という華々しい経歴をみると、何となく「シティボーイ」的なイメージを持つが、何を隠そう米山氏は魚沼の農家にお生まれとのこと。高校進学まで地元お住まいだったと考えるとシティボーイどころか生粋の「アグリボーイ」といったところか。(こういうところも好印象)

 

自民党農林部会長たる小泉進次郎氏が「米どころ新潟県には米輸出、攻める農業の模範となって欲しい」という主旨のコメントを発していることに対して、政府とケンカするつもりはないと前置きした上で「理想に浮かれて現実とかけ離れている。攻めるまえにしっかり守りを。」とビシッと主張されていたその姿勢は、中央の「シティボーイ」たちの理想論ではなく、農業の現場を知る「アグリボーイ」の血が通ったリアルな声を根拠にしていて力強かった。

 

孫子は「攻撃は最大の防御」と言ったが、それは勝てることが確定した際の攻撃のはなしであって、どうなるかわからない状況でむやみに打って出る蛮勇を指すのではないだろう。来るべき攻め時の為にも、守りを固める施策が必要なのではないだろうか。

 

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TPPの他にも、人口減少、少子高齢化等々と新潟県は向かい合わねばならない課題が山積している。

「再稼働の是非」というシングルイシューは選挙までにして、これらの問題に対して賛成か反対か、白か黒かといった極端な話ではなく現実に即した舵取りを期待したいところであり、我々託す側は結果を急かしすぎずに新しいリーダーの手腕を見守る必要があるだろう。

 

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星を見る眼~一番はっきりしているものは浅い、遠いものは深く大きい~

「生きる意味」や「本当に大切なこと」は簡単には見つからないし表現力することも難しい。

 

スピード感溢れる現代を生きる我々は、要するに、わかりやすく、まとめると…等々結論を急ぎがちだ。そして答えを求めるあまり時として強い言葉(往々にして汚い)や断言にひかれ、それを真実と思い込んでしまうことがある。

 

そんなことを考えていたら、そういった人間の弱みに訴えかけてくる某国大統領候補や透析患者を中傷したような暴言で今話題(?)の某フリーアナウンサーがすぐに思い浮かんできた。これを扇動と言わずになんというのだろう。

 

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秋の夜空は美しい。

 

そのなかで最も大きく見えるのは間違いなく月だ。他の星も美しく輝いているが、月の大きさには敵わない。

 

しかしながら、一番大きく「見える」月が本当に一番大きいか?と言われたらそうではない。他の米粒のように小さく光る星であっても遠くにあるがゆえに小さく「見える」だけで、その実体は月よりも遥かに大きいのだろう。

 

そんなことは当たり前、と思っていても肝心なときにその当たり前がわからなくなるのが人間である。

 

簡単に答えを出す危うさをしっかりとおさえて、小さく輝く星の大きさを想像するように自信を持って何かを求めて迷ったり悩んだりしながら生きていきたいものだ。

 

一番はっきりしているものは浅い。遠いものは深く大きい。星が満ちていると。そのように星を見る眼が成長してくる。(安田理深)

自分の人生に代打やリリーフはいない ―桑田真澄 

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プロ野球選手の清原和博容疑者(48)が覚せい剤取締法違反(所持)の疑いで逮捕されたことを受け、大阪・PL学園の同級生で巨人でもチームメートとしてプレーした桑田真澄氏(47)が4日、巨人のキャンプ地、宮崎市で心境を語った。

桑田氏「僕が言い続けていた方がよかったのかな」 一問一答(1) (デイリースポーツ) - Yahoo!ニュース
桑田氏、清原容疑者から「一切関わらないでくれ」 一問一答(2) (デイリースポーツ) - Yahoo!ニュース
桑田氏、清原容疑者「変わり切れなかった」 一問一答(3) (デイリースポーツ) - Yahoo!ニュース
桑田氏「みんなで彼を支えてあげることが大事」 一問一答(4) (デイリースポーツ) - Yahoo!ニュース

ただ今言えるのは、野球にはピンチになれば、代打とかリリーフというのもあるんですけど、自分の人生には代打もリリーフもないんですよね。

私たちは自分の人生や生き方を受け止めていかなければなりません。
誰かのせいにしたり、何かのせいにしたりするのは一時の気休めであり、最後まで逃げ切ることはできません。
苦しみや弱さを含めた自分自身と向き合い、それに頷ける生き方をしたいものだと桑田氏のことばをいただきました。

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僧侶としてもう少し考えたいことは、「打席に立つ」ということ。

いざ打席に立つのは他の誰も代わることのできない私ですが、そこに立つに至った経緯を考えることが大切です。誰のおかげで私は打席に立てているのか?

いろいろな人の“おかげさま”が積み重なった結果、打席に立てているわが身の事実を忘れずに。

そういったものへの感謝というのはアタマではわかったつもりになっていても、心の奥底、根っこの部分ではそう思いきれていないのが人間の在り方です。わかっちゃいるけどやめられない・・・だからこそ自分の生き方を意識的に点検することが大切になってきます。

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現役時代、数々のホームランを打ってきた男ですから、また自分の人生でも、きれいな放物線を描く逆転満塁ホームランを打ってもらいたいですしね。それが今の一番の思いですね

桑田氏はこのように語ってくれますが、ここでいう逆転満塁ホームランは清原さんの更生であり今後の社会的成功を意味するものではないと思いたいものです。

仏教の歴史が物語っていますが高みを目指せば目指すほど弱い自分と向き合うことになります。
その弱い自分が辛くて、逃げ出したくて人はまた禁止薬物に走るということは容易に想像できます。

清原さんに必要なのは番長の皮を被った強い自分を誇示するのではなく、そうせざるをえないほど弱かった自分と向き合いそれを受け入れることではないでしょうか。

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安居に向けて

秋安居にむけて講本を下読みしている。

安居(あんご)とは、お釈迦様が活躍していた時代から生き物が盛んに活動する雨季の間、無用な殺生を避けるため僧侶たちが一箇所に定住していたことに由来するもので、現在では僧侶らが一箇所に集まり仏教における学びを深める期間である。よく安吾と誤変換するが、坂口安吾とは一切関係がない。

われわれ三条教区は秋に開催するので秋安居。

今年は本山の安居本講と同様

講師 本多弘之 氏
講題 「金剛信の獲得」

ということになっている。


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曽我先生、安田先生の教学を受け継がれておられるのが本多先生。

曽我安田両先生の著作を読んでもチンプンカンプンだったことが「あーなるほど!」と頷くことができるように語られている。

とは言ったものの、簡単に読み進めて行ける類の本ではないので、ゆっくりと丁寧に下読みしていきたい。

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仏法とは?その2


仏法とは?
(50代 公務員 男性)



以前同様の質問にお答えしていました。

indy.hatenablog.com

前回は

「私は世間に生きているが、私という存在は世間を超えて生かされている、ということに頭が下がること」

と書きました。ちょっと難しいというかわかりにくいですね^^;


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今回は最近傾倒している平野修師のお言葉をかりてもっとチャーミングにお答えしたいと思います。

仏法とは?それすなわち


他人に「あなたズボンのチャックが開いていますよ」と指摘されて、「うわー!」と驚くこと!


です。(「パンツ見えてますよ」「うわー!」とも言えるかもしれません。)


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自分のズボンののチャックが開いているorパンツが見えているという事実は自分ではわかりません。気づかないからそうなっているのだと思います。我が身の本当の事実というのはわかっているようでわかっていないものなのです。そのわかっていない我が身の事実を指摘してくれるのが仏法である、そう考えてよろしいのではないかと思います。


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我々人間は本質的に我が身の本当の事実に対して弱い存在です。たとえば政治家は本当の事を指摘されると居心地悪そうになったり、もしかすると怒ったりするでしょう。したがって仏法に触れる、聞法するということは本質的に心地いいことではありません。誰だって「チャック開いていますよ!」なんて言われると恥ずかしいやら情けないやらでどうも居心地が悪くなるものです。事実というものは耳が痛いものなのです。

このことについて安田理深は「仏教など好きで聞けるものではない。好きで聞くというなら、変態者であろう。」と指摘しています。


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しかし、耳が痛い事実であってもそれを一旦受け入れれば、新しい私と出遇うことになります。もうチャックが閉まっているわけですから自信をもって生きていくことができる。仏教の醍醐味はここにあるのです。そこには、よくぞ言ってくれた!ありがとうm(__)mという感謝の思いが沸き起こってくるのです。「うわー!」と上記しましたが、この驚きには我が身の事実に触れたうしろめたさと、それを知りえた感謝という二重の意味が込められています。

仏法に触れるありがたさとは、我が身の事実を知りえたことに由来する、そうとも言えるのではないかと思います。


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さて、いかがでしたでしょう、以前よりチャーミングでしょ笑??

以前の

「私は世間に生きているが、私という存在は世間を超えて生かされている、ということに頭が下がること」

と、今回の

「他人に「あなたズボンのチャックが開いていますよ」と指摘されて、「うわー!」と驚くこと」

こう考えると結構似ていると思えてきませんか(^^)??



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《蛹の譬え》〜人は死んでどうなるのでしょう〜

先日手塚治虫の『ブッダ』を読了した。

この作品は数種類のコミックスが発行されているが、今回読んだのは講談社発行『手塚治虫漫画全集』に収められた『ブッダ』であった。全14巻。最終14巻の末には作者によるあとがきがあり、そこで作者は

「ブッダ」は先にのべたように、ほとんどがフィクションで、正確な仏典の漫画化ではありません。

と述べているように、この作品は《歴史的事実》としての仏教、もしくは釈尊伝を描いているものではない。それよりも作者個人がいただいた(=感動をおぼえた、と積極的に言いたい。)仏教の《真実》をビジュアル化したもので、それゆえにむしろ大乘経典性が高いと感じた。経典のほとんどは「如是我聞」(是の如く、我聞きたまえき)や「我聞如是」(我聞きたまえき、是の如き)といったように「わたしはこのようにいただいた」という始まり方をしているが、この作品の冒頭に「如是手塚聞」と記してあると脳内で加筆したい。


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たくさん感動のシーンや学びが深まったシーンがあったのだが、私の心を最大に射ったの最終話のアーナンダ(ブッダの弟子)が師ブッダに「人は死んでどうなるのでしょう」と尋ね、ブッダがそれに答えていくシーンであった。

死期の迫ったブッダはこう聞くアーナンダに

「おまえはまだそんなことを気にするのか。何十年も私についていて」

と、死や別れを前に迷いの中にいる弟子の凡夫性を愛情深く指摘しつつ、青虫が蛹となり、いずれは蝶になるように、長い時間のなかで人間が人間でいられるのはほんの短い間であると生命がうつりゆく相を諭す。そして「死ぬということは人の肉体という殻から生命がただとびだしていくだけだと思うがよい」と語り、とびだしていった生命が姿を変えて続いていく相を説く、そのシーンに最も心を惹かれたのであった。

この譬えは手塚治虫オリジナルではなく古来よりインドではあったようだが、私はこの譬えを《蛹の譬え》と命名したい。



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私は法話の機会をいただいた時に生命の連続性をお話させていただくことがある。




大切な方を亡くしてしまった。
失う辛さは耐え難く筆舌に尽くす事ができない。
しかしその辛さを消したり誤魔化したりする必要はない。
自分が失ったものはなにか、それと徹底的に向き合うことが何よりも大切。プラス思考がすべてではない。

あなたが失ったものは何か?そこから生まれる新たな問い。今も残っているものは何か?

確かに死は大切な人のカラダを奪っていく。目に見えるカタチとしてはもう会うことができない。
しかし、その人があなたにかけてくれた熱い思い、優しさ、願いは姿を変えていまも確かに残っているのではないか。
見たり、聞いたり、触れたりすることはできないが、確かにあなたのそばにカタチを変えていのちは残っている。

大切な方は悲しみに倒れたあなたを照らす光となって、立ち上がりともに歩むようになる。




そのような話を私はさせていただく。そして自分自身大切な人を亡くした経験を上記のようにいただいて生きている。その私にとって《蛹の喩え話》は本当に響くものがあった。

蛹として共に生き、願いの蝶として私を照らす

人間は偉大である。


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今月購入した本

今月手に入れた書籍を紹介します。

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これらと


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これら


本日(6/17)時点ではこれだけ。
これらに加えてAmazonより二冊

真宗入門

真宗入門

届く予定となっています。


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この中から特に私の注目本をピックアップ!

1・ゴージャス!写真豊富な図説!中村元『図説 仏教語大辞典』

図説 仏教語大辞典

図説 仏教語大辞典

祖母からいただきました。
中村先生の『仏教語大辞典』の図説版。写真や図が豊富で常に机の側に置いてパラパラとページを捲りたくなる(注モノクロ中心!)。仏教における諸々のイマジネーションが盛り上がること必死。元値2万円を超える本が5千円弱で手に入るんだからまだお持ちでない方は「買い!」でしょ!!


2・もはや入手困難の貴重本。新潟日報社『写真集 親鸞の越後』

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古本屋でたまたま見つけたので購入。その後家の書庫でもう一冊発見。まいっか。
昭和47年に親鸞聖人生誕800年、浄土真宗立教開宗750年を記念して発行された写真集。真宗王国越後における親鸞ゆかりの御宝物を一挙に掲載。この手の写真集は新潟では初らしい。昨年開催された特別展「なむの大地」の図録(こっちも所有済なのに重ねて購入した)も県内外の御宝物を一同にまとめているが、それも今月手に入れていたことに不思議な縁を感じる。

親鸞のには「海」の字が多い。この感覚は5年の居処であった越後に於いて養育されたものだろう。」金子大栄
「わたしは聖人を信じて、そのおかげでともかく科学者がおちいり易い分部的観察の危険から救われ、全体的に物を見、知的観察と同時に情的観察をも教えられた。」平澤興

帯に記された両先生の言葉が深い。


3・今興味がある「食」についての本。永山久夫『たべもの古代史』

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今私が熱い視線をおくっている分野、それは「食」である。親鸞は当時なにをどのように食していたのか?それがわかれば新しい聖教のいただき方につながってくるのではないか、御消息などを読むと何となくお酒も飲んでいたのではないかと思うところがあるんだけれども、その辺どうなんだろう、等など、食に関する興味は尽きない。そういった私自身の背景の中で、古来よりの食に関する知識を学べる一冊。栄進堂の月一古本市で購入。



こんなところか。


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別に本読んでるからエラいとか、仏教わかってるというつもりは一切ないし、思ってもいない。
そんなケチクサイことではなくて、純粋に読書という行為は私にとって楽しいものである。

体育大卒の身としては季節を問わず、年齢を問わず、場所を問わず、お金もそんなにかからず、一人でできるという読書はめちゃめちゃありがたい。もはや散々スポーツや運動やってきたので「さぁ、外に出て運動だ!」というバイタリティは私には今更ないのだ。まぁ振り返ってみれば学生当時もアパートに引きこもって『新宿鮫』とかのハードボイルド小説とか藤沢周平とか読んだりしていたが・・・

読書ってすばらしい


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今日も読んでくれてありがとう!